上野千鶴子氏の東大での祝辞が世間で賞賛を浴びている。私も全文を読んだが、相変わらずキレのよい発言で、感服である。ちなみに私の本棚には彼女の著作が何冊かある。長年日本を離れていたこともあり、最近、まともに読んだのは、「お一人様の老後」である。非常に世知辛く、また残酷な事実であるが、私の老後がひたひたと迫ってきているからだ。

私にはパートナーと子供x2がいるが、子供は18歳になったら出て行ってもらうことになっているし、日本の平均寿命に従えば、男性である私のパートナーが先に死に(あるいはその前に別れる可能性だってある)、私が一人で死んでいくのは明らかだ。たとえどんなに大勢の家族に囲まれていても、人は独りで死んでいく。私たちは自分の人生を独りで戦っている。結局のところ、自分の人生を独りで向き合う覚悟のもとに生きているかどうかということではないかと思う。

今回の彼女の祝辞はもちろん東大生にのみ向けられたものではなく、30年も昔、「女子高生でありながら」理学部を目指した私や、「女の子が勉強ができたって仕方がない」と言われた40年前の私にも向けられたものだ。私はたまたまそんな雑音をはね退けて自分のやりたいことをやれる人生を選ぶ機会にめぐまれた。それは本当に幸運なことだ。脳梗塞で入院中の父親をおいてアメリカに行くことを励ましてくれた母親には深く感謝しているし(彼女は眉をひそめた親族に怒ってもいた)、心から誇りに思う。もしもあの頃の自分に会えたら、アンタは間違ってない、ガンガンやれ!と背中を押してあげたい。

女性が日本の社会に存在する有形無形のプレッシャーと歪みをかいくぐって、自己実現を叶えるためにどれほどのエネルギーが必要なのか、男性にはわかりにくいだろう。日々のルーティンワーク(毎日のご飯作り、お弁当、掃除洗濯、子供達の塾や習い事の管理、ゴミチェックもろもろの名もなき家事)をこなしながらサイエンスをするのがどれほど労力が必要なのか、想像するのは難しいことだろう。同時に、私たち女性とっては、共感能力と調整能力の低い男性たちが抱える悲哀と孤独を理解するのは難しい(注:あくまで一般論で、もちろんそれらに長けている男性がいることは承知しています)。我々は共闘できるのか、あるいは協働できるのか。みなが幸せになれる社会など幻想なのか。しかしそれに向かって語り合うことは、決して無駄ではない。