勢い余って(というのは嘘で、一人目は語るも涙の不妊治療の結果)二人の子どもの親になったが、仕事との両立をどうしているのかと聞かれても、うまく答えられない。自分が「両立」出来ている自信がないからだろうと思う。両立とは、両方とも立つ―つまり、どちらも100%できるという前提になっている言葉のように思う。どちらも「立てて」いる確証がない私に答える資格があるとは思えない。

研究者としてのキャリアを考えた場合、子どもがいない方がどう考えたって有利だ。子持ちであっても、パートナーに家庭を切り盛りしてもらっている同業の男性研究者が多い。掃除洗濯をし、ご飯とお弁当を作り、子供の健康と習い事を管理し、ランドセルをひっくり返してしわくちゃになったプリントにサインしてくれるパートナーがいたらどんなに楽だろうと思う。

幸か不幸か、私のパートナーはそのタイプではない。家事も子育てもほぼ公平に(あるいは少しだけ多めに)私は負担している。私にとっては、人生は研究や仕事のためにだけあるものではない。世の中には、自分の目標に向かってたゆまざる努力をし、世界を変えていく人たちが存在する。それは素晴らしいし、そうやって生み出された知恵や芸術は人類の宝である。そしてその一握りの人たちにとっては、それ以外のことは些末にすぎないのかもしれない。

私はその一握りの才能ある人々ではない。しかし、正直言えば、私にも「サイエンス以外のことは考えられない」という時期があった。そうでなくては、人間、同じ仕事を10年も20年も続けられるものではないと思うのだ。しかし今は、「研究が全て、後は瑣末事項」、という状況は過ぎ去った。またそういう季節がやってくるかもしれないが、今は、二足のわらじをはいていると自分では思っている。研究者である自分と、親としての自分。親というのは、それをしたからといってお金が出る訳ではないので、正確には職業——もしくは稼業とはいえないのだが、まあ「背負っている仕事」としてそう規定させてもらう。この稼業は、季節ものである。人生のそれほど長くない期間、せいぜい10−15年程度が忙しいぐらいのもので、後は、子どもたちを遠くから励ます事ぐらいしか出来ない。この10−15年のダブルワークの季節をどうやって乗り切るかというのが、兼業主婦・主夫の課題ではなかろうか。

子育ては多大な犠牲を強いる。なぜ子供を持つのか。はっきり言って、道楽だろうと私は思っている。この現代の日本において、自分の老後に不安があるから子供を持たない、という人はいても、不安があるから子供を持つ、という人は少ないだろう。それは子どもを育てるのにお金もエネルギーも費やさなければならないからだ。「見返り」を期待するには、子供を育てることはあまりにもコスパが悪い。子育てにお金も時間もかかる日本で子供を育てることで得られるのは、経済的、精神的安定ではなく、育てることの楽しみである。子育ては道楽である。

人生50年と信長は好んで詠ったが1、今は平均して80年余を生きることになる。長い人生、楽しまなくては損である。清盛ではないが、遊びをせんとや生まれけむ2、である。子供と遊ぶ、子供で遊ぶ、人生を遊ぶ、のが、私の生きる道だ。遊ぶためのツールは多いに越したことはない。それが子育てかそうでないかは、人それぞれである。私は単に子どもがその一つだっただけのこと。いなくても遠くまで行ける人はたくさんおられることだろうとは思うが、凡人たる私は子どもを持つことによって世界が広がった。

子育てと仕事をどうやって両立するか、という問いには答えられない。が、両方を楽しむことはできる。楽しいことを続けるためには、その時々で、考えられる最大限の努力はする。できなくても、試してみる。エピキュリアンで居続けるためには、努力が求められるのだ。それでエピキュリアンのパラドクスにはまってしまうのだけれど。

誰か、エピキュリンとか見つけてくれないかなと思う。つらくなったときに、エピキュリンショットで(それじゃクスリじゃないか)、乗り越えられたらなあ。これってエピキュリアン失格なのか。しかし息子を見ていると、男ってエピキュリンが女よりたくさん出てるよなと思う。単にうちの息子がバカなだけかもしれないけど。そうか!次はこのプロジェクトか!ハエでエピキュリン探索!!院生求む!!(<ここが今日のTake home message?)

  1. 幸若舞/「敦盛」より

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

  1. 梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑より

遊びをせんとや生れけむ 

戯れせんとや生れけん 

遊ぶ子供の声きけば

我が身さえこそ動がるれ

(注:解釈には諸説があります)