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Vol.5
堀江健生教授のあゆみ(1/4) 研究者はエリートじゃなくてもやっていける 2022.10.5

FBSの研究者を訪ねて研究内容以外のことも、いろいろ(裏話も)おききしようという企画がはじまりました。今回は、2022年4月に「1細胞神経生物学研究室」を立ち上げられた堀江健生教授。堀江教授は、ホヤ幼生の神経回路形成を牽引する研究者ですが、臨海実験所の助教からFBSの教授になるというちょっと変わった経歴の持ち主でもあります。どのような研究人生を歩んで来られたのか、お話いただきます。

僕とホヤと恩師と
挫折人生?

僕は、自分自身がほかの人とちょっと変わってるなと思っています。生命機能研究科の教授の先生たちは、皆さんが最初からスターで、若い頃から大成功して、あっという間に教授になられたという方がほとんどだと思います。でも、僕は決してそうではないと思ってます。だからこそ、そんな姿を学生に見てもらいたいと思っています。トップの大学で、その中のビッグラボを出て、その中でも選りすぐりのスターが研究者、そして教授になっていくというイメージではなく、そういう人じゃなくても、研究者としてちゃんとやっていけるというロールモデルになれたらなと思うところがあります。

僕は、エリート街道を出ていません。それは出身大学からそうです。びっくりするぐらい田舎にある公立大学です。入学手続きの際には、最寄駅からのバス移動の最中にうっかり寝てしまい、パッと起きて「寝過ごした」と思ったのですが、運転手さんには「まだ奥です」と言われました。あまりにも山奥だったので本当にここでやっていけるのかと不安になりました。

ちなみにこの大学は第1志望ではありませんでした。本当は、今勤めている大学に入りたかったのですが、入れてもらえなくて…。僕の挫折人生はここから始まりました。浪人する気満々でしたが、高校時代の友人に「行きたい大学のどこにも合格しなかったから浪人するのに、大学を合格しているお前が浪人をするなんて、そんな贅沢なこと許されるのか」と言われ、浪人の予備校の申込する直前に一晩考え直して、やっぱり行こうと決意しました。それが結果として良かったのです。

ホヤと恩師との出会い

僕は、入学して2日後のオリエンテーションでホヤに出会っています。恩師となるクラス担任の津田基之先生が、大学の施設案内の際に、研究材料として使っていたマボヤを紹介してくれたのです。先生がみんなに「どんな動物か知っているか」と質問をしたのですが、40〜50人程のクラスメイトが答えられなかった中、図鑑を見るのが好きだった僕は、ホヤだと分かったのです。「先生、ホヤです」と答えると先生がすごく喜んでくれて。それが、僕とホヤと恩師との出会いです。でも、当時はホヤを研究するとは思っていなかったです。実は、オリエンテーションで妻とも出会っています。高校生への講演で「君たちも1年後もしかしたら生涯の研究材料とパートナーとの出会いがあるかもしれません」と言ったらめっちゃウケてました。

学生時代は、優等生でもなく、高校までは剣道に燃えていたんですよ。大学も剣道推薦で行くつもりだったんですが、推薦がもらえず、勉強の方に切り替えました。みんなと変わらない普通の大学生活を過ごしてました。よく学生たちに「ちゃんと過ごすように」って言っているのですが、奥さんからは「自分のことを棚に上げてよくそんなこと言うね」なんて言われます。真面目ではなかったですが、楽しい学生生活を過ごしていました。

研究ってこんなに楽しんだ、研究者になろう!
「俺は不器用だから発生学の研究は出来ないんだ」

その後、研究室に配属されますが、実は、ホヤは第1希望ではなかったのです。当時、僕が面白いなと思っていたのは、発生学と神経系の研究でした。発生学は、プラナリアの再生の研究をしている研究室が一つだけあり、阿形清和先生(現在は基礎生物学研究所の所長)が助教授としておられました。阿形先生の授業がとにかく面白く、発生学をしたいと思っていたのですが、ニワトリの発生を見るという実習でやらかしてしまいまして…。ニワトリの受精卵をもっと大きなニワトリの殻に一度移し、ラップをかけて観察するという手法だったのですが、殻を開けるのに刃が1枚2千円のカッターを使うのです。高価な実習だったので、先生が学生に「絶対壊すなよ」と言っていたのですが、言われたそばから僕はカッターごと落として、刃を思いっきり曲げてしまったのです。

むちゃくちゃ怒られました。「堀江!俺は10年この実習をやっているが、落としたやつはお前が初めてだ。お前は不器用だからお前だけはうちのラボに来るな」って。冗談だったと思うのですが、当時の僕は真に受けて「俺は不器用だから発生学の研究は出来ないんだ」と思ったわけです。阿形先生が岡山大学へ転出されたこともあり、プラナリアの研究は選びませんでした。そこで、もともと脳に興味があったこととホヤとの出会いを思い出し、ホヤを使った脳の研究していた津田先生にお世話になることになります。阿形先生には現在、創発的研究支援事業のアドバイザーとして、とてもお世話になっています。直接の研究の師匠ではありませんが、私が脳科学、発生生物学を選択するときにとても大きな影響を与えてくれた先生で、今も当時と変わらずとても尊敬しています。

これまでのエピソードでもわかるように僕の人生は全て第1希望で進んでいったわけではないです。それでも、やりたかったことができなかったこと、希望の研究室に配属されなかったことがコンプレックスになることや、モチベーションを下げることにもならなかったです。学生さんの中には、第1希望の研究室じゃないからモチベーションが上がらないという人もいると思います。でも、希望通りじゃないからといって、落ち込む必要はないです。僕の今があるように「その都度、その都度、選んだ先で一生懸命頑張るということがその次に繋がっていて、プラスになる」と伝えたいです。僕なんてネガティブな選択ばかりです。それでも今があるので、結果としてはポジティブなものだったのです。

とっておきの写真

もちろん、ホヤという生き物がすごく面白いなと思っていました。でも、研究を始めた当時は、ホヤの脳について何もわかっていなかったのです。それで、ホヤの脳を色分けして神経細胞を分類することで、それぞれの機能や発生を研究していこうと思いつきました。このストラテジーを教授に伝えたのですが、最初に与えられたテーマと違うこともあって、残念ながら認められませんでした。だから、教授に黙って(助手の先生と一緒に)夜中にこっそりとコツコツ実験をしていました。それで、アレスチンという目にあるタンパク質に対する抗体が出来上がったのです。

ホヤの目がアレスチン抗体で可視化された。

これが僕にとってのとっておきの写真です。夜中に研究室に一人で(顕微鏡を覗いたら)何もないところに、これだけが見えたのです。この瞬間を目撃しているのが僕だけで、世界で初めてこれを見た人が学部4年生の僕だという、そんな状況にとにかく感動しました。当時から大学院、特に修士課程には進学したいと思っていました。でも、研究がしたいという気持ちよりも近所にいた大学院生の先輩への憧れや、理系は大学院までいくだろうという漠然としたもので、博士までの進学はイメージしていなかったです。

でも、修士1年の9月にホヤの神経系に的を絞った小さな研究会で気持ちが大きく固まりました。当時、まだわかっていなかったホヤの光受容細胞を可視化し、学会発表したのです。それが大盛況で、いろんな人がポスターに来てくれました。その際、東京工業大学におられた西田宏記先生(現在は大阪大学大学院理学研究科の教授)が僕の仕事を褒めてくれたのです。「こんな偉い先生が褒めてくれるなんて」と有頂天になり、単純だった僕は「研究ってこんなに楽しんだ、研究者になろう!博士課程に進学しよう」と思ったのです。

当時『細胞工学』という雑誌に「1枚の写真館」というページがあったのですが、これに掲載されるなら僕はこの写真使うなあなんて、ワクワクしていました。

学生の頃

どこでもやっていける自信
「目的のためには、手段を選ばない」

今の研究は、この頃からずっとアイデアを持っていました。修士1年の時に初めて作成した研究費の申請書にも「ホヤ幼生の神経回路マップの作成」と書いています。でも、当時は、1細胞レベルで色んな神経回路の操作や実験をする技術はありませんでした。それができるようになったのが2015~2018年にかけてです。1細胞トランスクリプトームという技術で、神経細胞を一つ一つ分類して、一つの細胞だけに外来遺伝子を導入できるのです。僕は、この技術が普及する前から、1細胞レベルでどういったことが研究できるのかということを10年、20年と考え続けていました。だから、その潮流がきた瞬間に乗っかることができ、今があるのだと思います。

津田先生から「目的のためには、手段を選ばない」ということを学びました。物事を達成するためには、今までの経験や手法に固執することなく、色んな手法や新しい手法を恐れずに導入しなさいということです。津田先生もどんどん新しい手法を導入し、学生に提案してくる先生だったのですが、僕自身PIになって思うのは、いかに新技術を導入して、ブレイクスルーを生み出すかなのです。古いものに囚われていると新しいものを生み出せないと思うので、僕は恐れずに、新技術をラボに入れていくことを考えています。

話は逸れてしまったのですが、博士課程はいろいろあって苦労し、博士取得までに4年かかりました。学生さんの中には、3年で取得しないとその後の研究人生が上手くいくのかと不安に思う人もいるかもしれませんが、後でリカバリーは効きます。僕自身、4年かかりましたが、1年間は無駄ではなかったと思っています。考える時間がたくさんあり、周りに何もなかったので、研究には集中できました。博士取得後に臨海実験所に行くのですが、そこもまぁまぁの田舎です。それでも、学生生活を過ごした場所よりも田舎の場所はないので、どこでもやっていける自信がつきました。

三つの選択肢

博士課程を終えて、分野を大きく変えることが出来るチャンスが3つありました。1つ目は、第1希望であった脊椎動物の目の発生の研究、2つ目は、第2希望であったゼブラフィッシュ、魚類の松果体の研究、3つ目は、ホヤの研究を続けることでした。当時の指導教官の先生にも3つの選択肢を相談しました。すると、2つ目のゼブラフィッシュを研究されている先生が、津田先生のお知り合いということがわかり、紹介していただけることになりました。ゼブラフィッシュを使った松果体の研究をされている先生のもとで網膜と松果体(似ているけれども違う組織)を比較することで、新しい発生分化メカニズムに迫る研究をしたいとお願いし、学振PDへの採択を条件に許可を頂いたのですが、見事に落ちてしまったのです。

それで、次の行先として、UC Santa BarbaraのWilliam C. Smith(ビル)という研究者を紹介していただきました。Nogginの発見者のひとりである彼は、もともとアフリカツメガエルの研究者であり、世界的に有名な発生学者でした。そんな彼が、アフリカツメガエルからホヤの研究へと転向し、ホヤの脳の中にある色素細胞がない変異体を作っていました。そして、その色素細胞がない変異体の脳の構造についての解析を僕たちの研究室に依頼してきていたのです。共同研究をしていたこと、僕が色んな神経細胞を染める抗体を持っていたこともあり、ビルは、研究室への受け入れを快諾してくれました。そして、UC Santa Barbaraに行く準備を進めていました。

そんな中、日本でも同じような変異体を作る研究をされている筑波大学の笹倉靖徳先生が、ビルのラボに行く予定の僕を誘ってくれていたのです。笹倉先生は、トランスポゾンという動く遺伝子を使って、ホヤのゲノムの中にトランスポゾンを挿入して光るホヤを作り、トランスポゾンを動かすことでホヤの遺伝子を破壊するという手法を使っていた方であり、ある意味、ビルの競合相手の方でした。僕のところでも同じ研究ができるからと誘っていただいていたのですが、ビルのラボと約束していたのでアメリカに行きますと断り続けていました。

臨海実験所へ

でも、あるときビルを紹介していただいた教授と色々あって・・・。最終的に「ビルのラボには行きません、笹倉先生にお世話になります」と伝え、その場で笹倉先生に連絡を入れました。笹倉先生も僕の心変わりがある前にと、あっという間に手続き書類一式を送ってこられて、それで筑波大学下田臨海実験センターに行くことにしました。下田に一度も行ったことがなかったのですが、むちゃくちゃな勢いで決めてしまいました。それでも、結果的に正解でした。

笹倉先生は、ホヤで遺伝学のパイオニアです。トランスポゾンを使って次世代に外来遺伝子を持っているホヤを作り出すという手法を確立された方で、当時はテニュアトラック教員としてラボを立ち上げたところでした。当時31か32歳だったと思います。PI一人、ポスドク一人の若いイケイケのラボでした。年齢もすごく近かったということもあり、そこでみっちり遺伝学の基礎からホヤの研究の基礎まで全てを仕込んで頂きました。僕も僕の妻も笹倉先生から実験を教えて頂き、今があるのは本当に笹倉先生のおかげです。あ、ポスドクとして行かなかったビルとは、共同研究者として交流を続けています。昨年度から情報通信研究機構からサポートをいただいて「Computational Neuroscience in the basal chordate Ciona」というタイトルで、ビルとフランスのホヤ研究者のPatrick Lemaireと私の3人で国際共同研究プロジェクトを進めています。

今回は、学生の頃を中心にお話いただきました。次回は、博士を取得した後、どのようにサイエンスを続けてこられたか。ポスドク、助教の頃の紆余曲折についてお話いただきます。

(上野・木藤)

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