対談集 パート2

柳田研究室

Soft Biosystem Group

生物物理学って何?

この記事は、Z会受験科情報誌Azest10に掲載されたものです。Z会さんの好意により、ホームページへの転載が可能になりました。

−生物物理学とは,どういった学問でしょうか。

生物物理学は,物理や工学,化学の人たちが生物学を勉強したい・研究したいということで作った学会なんですね。世界的にも量子力学のシュレーディンガーらを中心に,物理の観点から生物を見つめようっていう気運が出てきて,'60年代くらいから生物物理という分野ができてきました。日本では小谷正雄さんとか大沢文夫さんといった物理の先生たちと,渡辺格さんといった生物の先生たちが一緒に組んで生物物理学会が作られました。それまでの生物っぽい,いわゆる理学部の生物や医学部の生物系の人たちがやっていたような学問に,物理的な考え方や研究手段を持ち込んでブレイクスルーを引き起こそうということで始まり,脈々と続いて来てます。

そういうわけですから,学問分野としてはかなり基本的なところ,基礎研究なので,新聞やマスコミには表立っては出てこないから,生物物理ってあんまり聞かないですよね。だいたい,聞いてもなんとなく堅い分野かなって感じがするんでしょうけど。最近,ポストゲノムの時代に入って,表舞台に出て来たっていう分野なんですよ。

生物物理の手法や思考が、生命科学にゲノム時代の次を拓く


生物物理が何をしてるかについて,ポストゲノムとの関連から例を挙げると,生物情報科学や構造生物学があります。これはたとえばコンピュータサイエンスを使って,遺伝子からタンパク質の構造や機能を予測するものですけど,こういうことは生物の人だけではなく,物理の人が入らないとできないですからね。

たとえば,タンパク質は特定の構造を持ちますから,X線回折やNMRといった物理的な方法でその構造を決めないといけない。構造が決まると,そのタンパク質がどういう機能をしてるかがわかってきます。構造と機能がわかれば創薬にも応用できます。そういった,ベースになる研究ですね。

また,バイオイメージングという手法もあります。バイオナノテクノロジーとも言われますけど。タンパク質は集合して特定の機能を果たす分子機械を作りますが,その働く仕組みを物理的・工学的ないろんな方法を使って決めていくものです。細胞の中ではタンパク質でできた分子機械がたくさん集まってネットワークを作ってます。細胞の中で分子機械がどういうふうに働いているのか,その現場をとらえるような仕事です。細胞一個でもちっちゃいですけど,その中で働いている分子はナノメーターサイズですから,それがどう働いているかを検出するのは,物理工学の世界のすごく高度なテクノロジーを必要とします。

分子機械の仕組みを決めることで,コンピュータの素子であるトランジスタといった人工的に作る機械と生物は,どこがどう違うのか明らかになる。例えば,トランジスタが集まってコンピュータができるわけですけど,タンパク質の分子機械も集まると例えば脳になったりするわけですよね。脳の働きはコンピュータとかなり違い,ある面では非常に高級です。なぜ,そういう高次な機能が発現するのかを,素子であるタンパク質のレベルから研究していくのがバイオナノテクノロジーです。

また,脳の研究の一つには,脳の中でどういう細胞の回路ができてるかを調べないといけないんです。そのためには,脳を生きたまま計測しないといけない。非侵襲計測っていうんですけど,脳のどの部分でどういうふうに細胞が働いているか,また神経細胞がどういう回路を作っているかをイメージングしたり計測したりする技術を開発する必要があります。これは,生物屋さんの仕事というより物理屋の仕事なんですね。

他に,生物は非常に複雑な系で,これまでの物理の(っていったらしかられちゃうかな)仕事のように,計測・分析することだけで答が出るほど単純な系じゃないんですね。だからどうしても理論がいる。それをモデル化,作業仮説っていいます。そういうモデルに従って研究しないといけない。これは理論物理という分野の仕事です。複雑系とかカオスとか聞いたことありませんか? そういう理論と,工学物理的な計測で得たデータをもとにして,生物がどう働いているかという新しい原理を構築していく仕事もあります。

これまでに生命科学はすごく進展してきました。生命科学というと,皆さんはクローンとかゲノムとか遺伝子とかが頭に浮かぶでしょう。それらの研究は遺伝子工学や分子細胞学的な研究手法,つまり試験管でやるような仕事をベースに飛躍的に進展しました。そこでは,特定の働きをもつ機能タンパク質や遺伝子を探索してその性質を決めることがメインでした。

その仕事でかなりのことがわかってきたんだけど,生体の中では機能しているタンパク質が集まって細胞を作り,そういう集合の中でタンパク質は非常にダイナミックに動いています。これからは,そのダイナミックに動いている状態をとらえていかなくちゃいけない。そのためには最先端の計測技術やイメージング技術といった物理工学的な手法が非常に必要になる。それと,生命現象を理解する理論をつくるためのモデルとかコンピュータサイエンスが必要になっている。

工学,物理学,化学に心理学。他分野との融合で新しい分野ができる


生物物理はそういうところが専門なんです。今は,分子生物学だけをやる時代じゃない。そういう生きた動態を計測したり理解するような学問分野と融合しないといけない。まだ遺伝子工学や分子生物学的な手法の仕事が必要なくなったわけではないので,そのアクティビティが下がっては困るんですけど,これからは遺伝子工学や分子生物学に生物物理学をプラスしないといけない。両者が融合することによって新しいものができるんじゃないかなって思います。

また生物物理には,心理学も入ってくるんですよ,文学部の。脳なんてものは,それだけを計測してどう働いてます,だけじゃわかんなくて,心だとか快さだとかそういうものも研究していかないといけないだろうから。うちの研究室も5,6人は心理の出身です。心理学でICUの修士課程を修了してから来た人もいます。

そういうふうに,生命科学はいろんな分野の人が融合して研究しないといけないですね。生命科学の中でも,生物物理は物理工学的な手法や考え方を得意にしている分野です。だから,学部ではしっかりと物理と工学を学んで身につけて,そしてたくさんある生物のすごくおもしろい研究対象にチャレンジしていく。その時に生物物理というフィールドを選んでいただければ,どんどんいろんなことが提供できます。

−教授は基礎工学部のご出身ですよね。


僕はまさに今話した路線そのもので,大学院の修士までは電気工学科で,生物にはまったく関係ない半導体物理を勉強してました。僕らの学生時代はトランジスタの創世期でしたから,トランジスタとか電子工学のエンジニアっていうのは,今でいう医者くらいトレンディだったんです。そういうとみんな笑うし,今は誰も信用しないけど。

でもね,僕が生物に移ったのはなんでかっていうと,電子工学はこれからトランジスタを使ってラジオやコンピュータを作るっていう路線が引かれてたんです。そういう応用研究は今からどんどん進むとは思ったんだけど,原理そのものはもうできちゃってたから。また違った新しい機械の原理,私たちはエンジンもコンピュータもみんな機械っていいますが,新しい機械の原理を探したいと思ったんです。

それで博士課程に進む時に生物に移ったんです。修士を出て会社に行ったけど一年で辞めて,博士課程は生物物理の部屋に入りました。生物はやっぱり半導体とは全然違う世界で,苦労もあったけどすごくおもしろい,研究対象としてはもう宝庫みたいなもんでした。おもしろい現象はいっぱいあるし,知りたいことも興味あることもいっぱいあるしね。でも当時は,おもしろいんだけど,それを計測したり解釈したりするあまりいい方法がなかったんです。生物っていうのは物理工学の手法でアプローチするにはあまりにも難解・複雑に過ぎたものでした。

今はみんなの努力で研究も進んできてね,なんとなく生物が手に負えるようになってきた。そしてちょうどその時に,ポストゲノム時代に入って,もう単なる生化学だとか細胞生物学だけじゃなく物理的工学的手法が必要になった。手法の成熟度と時代の趨勢がちょうどマッチしたんで,これからは生物物理がすごく発展すると思います。

−研究室の研究例を,すこし詳しく教えてください。

メインはさっき触れたバイオナノテクノロジー,ナノメートル(10億分の1メートル)サイズのタンパク質などの生体材料を計測したり解析するテクノロジーです。その一つにはこれまでタンパク質,たとえば分子モーターとかDNAの情報を読むプロモーターといった分子機械を直接見ることができなかったんだけど,分子機械の動きを直接イメージングする・直接触るような技術を使ってタンパク質分子機械の働く仕組みを明らかにしていく仕事です。



「いいかげん」を包含して高次機能を発現する,生命の不思議。


この研究でわかったことは,まあ,いいかげんが一番大切ということですね。あははは。コンピュータを人工機械代表とするとその素子はトランジスタです。トランジスタは非常に正確に・高速に働くように設計されています。正確さとか高速っていうのはトランジスタの生命線です。それに対して,脳なんかを構成しているタンパク質分子機械は,個々の素子の挙動は間違いだらけで,非常に鈍速でいいかげんに働いていて,人工機械として考えるともうとてもどうにもならない・素子として使い物にならないものなんです。けれども,現実的にはそういうものが集まって脳といったコンピュータではとても真似できない高級なものをつくる。そのミステリーを解き明かしたい。

まだ正確にわかったわけじゃないんですけど,コンピュータが働く仕組みと脳が働いている仕組みとは基本的に異なっていて,割といいかげん・曖昧な素子をうまく集めると実は非常に柔軟で融通性のきくシステムというか機械ができるのではというのがなんとなくわかってきた。素子は曖昧でいいかげんな方が,実はシステムになった時の自律性・融通性・柔軟性にとっては有利なのかもしれない。

−いいかげんというと,教授のご研究のミオシンがアクチンの上をバックステップする映像は衝撃的でした。

バックするのは間違いですよね,ある意味で。コンピュータの素子なら絶対あんなことないんですよ。そういうふうに,一個だけ見ると前にいったり後ろにいったり曖昧に動いているんだけど,つまり一つだけ見るといいかげんに動くんだけど,そういうやつが集まってシステムになるときに,バックしてもいいっていう許容があった方が全体としてはしっかり動くんじゃないか。人間,全員前に行こうってやつばっかり集めるとちゃんと動かなくって,誰かが前にいった時は自分は後ろに行って合わすということですね。ま,あまり科学的な説明じゃないけれど。

1分子の挙動は今までのテクノロジーでは見ることはできなかったんで,分子機械もコンピュータと同じようにきちっと動くと思われてたし,教科書にもまだそう書いてあります。そういうふうに理解されていたんだけど,技術がどんどん上がってきて分子機械を観察できるようになったら,そんなに単純に,人工機械と同じように0・1でデジタルに働くような素子ではないとわかってきた。もう少しアナログ的で曖昧に働いている。

「曖昧」「いいかげん」を含む機械こそ,人間がつきあいやすいものかもしれない。


逆に,曖昧なものがちゃんと働いて機能を果たすメカニズムを知れば,今のコンピュータとはまったく違う原理で働く計算機ができる。多分それが脳型コンピュータだろう。そういうものが人にやさしい情報機械に発展していくんじゃないかと思いますね。今の機械は,人間の能力というか人間のやってることとどんどん違うところへ進んでいくから,違和感や恐怖感がありますよね。そうじゃない,もっと「人間的」に働く機械が求められている。僕らの研究はそこにつながるんじゃないかと考えてます。

これまでの科学技術や研究は,便利なとか,効率を高めるとか,速く動くとか,目標がはっきりしていたから,そういうものを作るために一生懸命朝から晩まで働いて研究してればよかった。だけどご存じのように,今はそんなものはいらないっていう時代でしょ。だから,今からは科学技術は何を目指せばいいか,そういうことまできちっとわかる人が,一番最先端の科学技術者になると思うんですね。

「道楽」を極めるのが科学界でアメリカに勝つ方法!?


イチローや新庄がメジャーリーグでヒット打っても,何の役にも立たないよね。でもクローン人間よりも感動させる。少なくとも感動を受ける人の数は,新庄のホームランやプレイステーションのゲームなんかの方が多い。だから,本当に人間が求めてるものをちゃんと理解して研究をする人が,今からは一番いい研究者になっていくと思います。

ということは,きちっといろんな遊びもしとらないかん。だよね? 真面目に勉強して研究するだけでは,いい大学に入れるかもしれないけど,後が伸びないと思いますね。遊んでるやつが研究するってことは,本当に勉強したいからするってことだからね。おもしろいっていう原動力のある子と,いつも嫌々やってる子はどんどん差が出てきます。だから,楽しむっていう気持ちがないと研究は伸びない。研究している本人が人間にとって楽しいことは何だか知らないのに,その追究はできないからね。でも受験生にどないいうたらええのやろねえ。遊べっていったら大学入られへんし,勉強はせなしゃぁないんやけど。でもとにかく勉強だけではきっと一生は続かんっていうのは確かやね。

今まではよかった,効率を上げればいいわけですから目標がはっきりしてて。僕は今ごろよくメーカーの研究所に講演してくれって呼ばれるんだけど,そのとき所長さんは何て言いはると思います? 「今のトランジスタを改良して速くしたり効率よくしたり,そんなことには十分自信があります。でも世の中はそんなものを求めてない,先生,これからどないしたらいいのやろ」,って言いはる。何となく「人にやさしい機械」ってなものが今からは求められるのはわかっていて,だから生物を研究したい意志があって,それをやってる僕らにいろいろ聞きはるんですね。

首相が所信表明で科学技術立国を宣言して,技術を向上させることが日本が世界経済に負けないためにやることだって言ってます。科学技術で負けるってことは,経済面でも負けちゃうっていうことにもなりますから,とくにアメリカには負けられない。でもアメリカは移民を認めて,中国とかいろんな国の最も優秀な人材をどんどん取り入れる。野球でイチローや新庄を入れるのと一緒でね。日本には世界の人はほとんど来ないですよね。お金だって向こうの方が日本の何倍かの規模がある。そんなのにどないして勝つんや,このままいったら負けるんじゃないかって思う。

でも勝つ方法はある。アメリカの研究者は,全般的な傾向としてですけど,科学技術で自分の立場や社会的ステータス,収入を得ようとする。野球と一緒です。それに対して日本の研究者にとって研究は何かというと,道楽なんですよ。研究者の給料ってめちゃくちゃ低いからね,ほんとに。日本では,別に研究で生活が楽になるわけじゃないのにみんな大学の先生になりたがるのは,やっぱり研究を楽しみたいんじゃないかな。文化が全然違うよね。

これを大事にしていけば,研究の原動力が全然違うから,アメリカにも勝てるんじゃないか。研究が楽しい人が研究するのが日本の風土で,いろんな遊びの一つとして研究が一番おもしろいんだっていう人が研究者になる,すると一番伸びる。

後,研究は競争でね。世界との競争を,そりゃ身を削るような思いでやらんといかん。これもなかなか大変で。負けちゃいかんから,迎合しちゃいかん,NOはNOって言わないといけない。世界に勝つためには自分の特徴がないといけないでしょ。向こうの仕事を導入して同じ仕事をしとったらそんなん負けるに決まってるじゃないですか。じゃ特徴は何かっていうと,日本の文化ですよね。日本の文化に根ざした研究をきちっとやることが,世界に勝つ方法やと。その日本の文化ってなんやっていうと,アメリカとの対応でいうと,道楽で研究をしてることだと。道楽っていうのはもう趣味の域じゃなくって,もっとこう鬼気迫るものがあるっていうか迫力があるというか,阪田三吉の半生記みたいなもんじゃないといけない。

世間を感動させるくらい研究して,世界にインパクトを与えよう!?


新庄なんかと一緒でね,研究者がそこまで世間離れして研究に打ち込んでいる姿に,きっと国民は感激すると思う。そこまで究めてると,国民もそれはもう税金であっても認めると思うんですよ。ノーベル化学賞とった白川さんもほとんど道楽だよね,あんまり論文も書かずに自分で好きなことやってはったんやから。でも,そういうところから世界にインパクト与えるような仕事が出るんですよ。いくら実験して論文書いてても,迎合しているのはだめなんです。オリジナリティーがないと,外国人には認められないから。

みんながそんなことしたらあかんけど,研究者の3分の1くらいはそういう道楽を究めているような研究スタイルを世間に認めてもらって,効率よく仕事しないでその都度その都度世界に勝つような仕事をしなさいっていうことになったらなあ。白川先生じゃないけど,1人が50年に一発,世界でも日本でも誰もできないことを当てればいいんですからね。

−将来生物物理をやりたい高校生に,こんなことをやっていればというものがあれば教えていただけますか。


物理や工学をやってた人が,生物を対象にしたくなることは非常に多いんですよ。生物物理はそういう人たちを受け入れている学科なんで,たまたま,というのは変ですけど,大学は物理や工学に入っちゃった,でもやっぱり生物,脳だとか筋肉や分子とか細胞とか病気とかいうのがおもしろそうだと思った時には,いつからでもいいから生物物理を選んだらいい。

別にいつから準備しなきゃいけないってことはないんですよ。さっき言いましたように,心理学をマスターまでやってから来る人もいますし,ひどいのはもう教授になってしまってから変わる人だっているから,時期は別に気にする必要はない。工学や物理,化学に入っちゃったからもう生物は研究できないって思わないで,むしろ融合的な分野がこれからは大事だから,そういう人がどんどん生物をやってくれたらいい。その時の受け皿の一つとして生物物理があります。

−ありがとうございました。