大阪大学大学院 医学系研究科 病理学 幹細胞病理学/大阪大学大学院 生命機能研究科 時空生物学 病因解析学
Department of Pathology, Medical School and Graduate School of Frontier Biosciences, Osaka University

なかのとおるのつぶやき

HOMEなかのとおるのつぶやき(目次) > No.028 Contents

君は考えたことがあるのだろうか ーMD研究者の育成について―

医学部出身の基礎研究者、いわゆるMD研究者、が激減していることが問題になっている。そのために、医学部在学中から、基礎医学の研究を積極的にやらせて育成しよう、というコースがあちこちの大学でおこなわれている。

自分自身がそうであるし、医学部出身の研究者が基礎医学を教えることの重要性は十分に認識している。しかし、そのようなコースに全面的に賛成かというと、決してそうではない。むしろ、いまのやり方にはネガティブな意見を持っている。

研究というのは、きわめて労働集約的なものである。いいかえると、ちゃんとやるとなると、ものすごく時間がかかる。はたして、ほんとうに医学生にそういうことをやらせて、それでなくとも勉強で忙しい学生時代の貴重な時間を研究室にしばりつけるのが正しいことかどうか、いささか疑問に思っているのだ。

コースを薦める基礎医学の教授たちは、いわば勝ち組だ。研究に挫折したMD研究者がたくさんいるのに、成功バイアスのかかった教授たちが、基礎研究というのはこんなにすばらしく楽しいですよ、とバラ色のことばかりいうのはおかしいのではないか。きちんとデメリットも伝えるべきではないか、と天邪鬼は思ってしまうのである。

なによりも気になるのは、現行の研修医制度では、MD研究者用のコースにはいって学生時代に研究にいそしんだとしても、おそらく、そのほとんどは基礎研究者にならずに臨床医になるということである。研究室というのは非常に閉鎖的なところであって、研究以外に学べることは多くない。そうなると、結果として、他のことを経験できるはずの、あるいは、経験すべき時間を無駄にすごさせてしまっているのではないかと案じるのである。

というようなことをずいぶんと以前から考えている。そんなところへ、近畿地区の三つの大学のMD研究者コースたちの学生合宿で話をしてくれないかという依頼が来た。腰を折るような話になりますけれど、いいですか、とたずねると、どうぞ、と言ってもらえた。それならば、と、そのときに配った『君は考えたことがあるのだろうか』と題したレジュメがこれである。


****************************************************************

『何かを得れば何かを失う。何ものをも失わずに何かを手に入れることはできない。』

大好きな作家・開高健の言葉である。何かを決断するとき、いつもこの言葉が頭をよぎる。君たちは何年か前に、望み通りに医学生になった。そのとき、大きなものを得たと思っているだろう。しかし、それと同時に多くのものを失っている。

多くのもの、というよりは、他にもあったたくさんの可能性、と言ったほうがわかりやすいかもしれない。人生は一度きりだけれど、あそこでこうしていれば違う人生があったかもしれない、という想像上の人生はいくつでもある。そう、「世界は『使われなかった』人生であふれている」(© 沢木耕太郎)のだ。

人生、ある年齢の時にしておかなければないことは結構多い。本を読んだり、映画を見たり、旅行をしたり、というようなことはいつでもできると思っているかもしれない。しかし、決してそんなことはない。医師になるとなかなかそんな時間がとれない。それに、歳をとってからの経験と若いころの経験というのは、同じように見えてもまったく違う。

そして恋愛。これは、絶対に若いころにできるだけ経験しておくべきだ。人を好きになるとはどういうことか、人と別れるということはどういうことか。回復力のある若い時にできるだけ学んでおくことをお勧めする。

MD研究者をめざしているといっても、おそらく間違いなく、大多数は初期研修から後期研修へと進んでいくだろう。心豊かな医師になるためには、旅や読書や映画、そして、恋愛といった経験を若いうちに積んで、人生に対するイマジネーション、とでもいうべきものをしっかりと鍛えておくべきだ。

君たちは考えたことがあるのだろうか。それでなくとも勉強に追われる医学生時代に基礎医学の研究に多大な時間を費やすことが君たちの人生にとってほんとうに重要かどうかを。つきつめれば、自分で決めることができるのは、自分の時間の使い方しかありはしない。MD研究者を目指すことは立派なことだ。しかし、私は問いたい。君たちは本当に自分の頭でしっかり考えてそのことを決断したのだろうか、と。

何かを得れば何かを失う、というのは永遠の真理である。歳をとってから後悔しても遅すぎる。決して時間は戻ってこないのだから。

****************************************************************


誤解しないでいただきたいけれど、決して、コースなど辞めてしまえ、と言っているのではない。コースは続ければいいし、しっかりと考えて参加する学生は参加すればいい。いやみでもなんでもなく、ほんとうに立派なことだと思っている。しかし、その前に、正しい情報を与えてきちんと考えさせるべきだと言っているだけなのだ。

研究というのは、おそらく経験のない人たちが考えるよりも、はるかにきついものであり、また、運に左右されるものである。謙遜でなく、幸運に恵まれたからこそ、ここまで30年もやってこられたと思っている。そういうような、研究に対する真摯で謙虚な態度をもってコースのことを薦めるべきではなかろうか。

流れに棹さす少数意見であることは重々承知している。みんなが一生懸命やっているのに、おまえは水を差すのか、というお叱りもうけるだろう。しかし、そういう先生には、尋ねてみたい。ほんとうに学生の将来を考えるとどうなのでしょうかと。 

こういったコースにはいろうかと迷っている医学生には、きちんとした情報を得て、自分自身の頭でしっかりと考えてもらいたい。そうする姿勢こそが、医師になるにしても、研究者になるにしても、いちばん大事なことなのであるから。 

2014年 1月

ページの先頭へ