大阪大学大学院 医学系研究科 病理学 幹細胞病理学/大阪大学大学院 生命機能研究科 時空生物学 病因解析学
Department of Pathology, Medical School and Graduate School of Frontier Biosciences, Osaka University

なかのとおるのつぶやき

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大学入試のあり方 −なんのために学ぶのか その4−

大学の入学試験というのは、いったい何を『はかる』ためのものなのだろう。いちばん望ましいのは、その学生が入学してから、その学問分野を学ぶにたる能力を持っているかどうかを知ることだ。しかし、大学で学ぶことというのは、それまでに学んだ内容とは根本的に違う。まだ学んだことがない学問を学ぶにふさわしいかどうかを調べる、というのは原理的に不可能なことだ。

高校までに学んだことをどれだけ理解しているか、を外挿して、大学で学ぶ能力の測定にあてはめているということになるのだろうか。しかし、五教科、せいぜい九科目で代替するというのは、あまりに乱暴な話だろう。考える力を見るというお題目はあるけれど、数学までも含めて、その多くは記憶力を測るものでしかない。

受験勉強の内容が、大学での勉強や社会人になってから役にたつかどうか、という議論があるが、ユニバーサルに役立つのは、英語ぐらいのものだろう。受験英語など、という人もいるが、きちんと勉強していさえいれば、読み書きに関してはしっかり役立つ。他の科目については、学部による差は多少あるだろうけれど、基本的にはたいして役にたたないと考えたほうが無難だ。

じゃぁ、通常の入学試験って、何?という感じがしてくる。少しうがった考えかもしれないけれど、これは、どの程度がまんできるポテンシャルがあるか、を調べるための試金石ではないかと考えている。もちろん、個々の学生にとって能力の違いはある。その能力と、がまんできる能力、の掛け算、といったものを調べさせてもらう、というのが正しい解釈ではないだろうか、ということである。

さきにも書いたように、受験勉強など、なんのかんのといっても、基本的には役にたたないものなのである。十代の後半、いろいろなことに興味がある年頃である。その何年かを、遊びを我慢し、その、役にたたなさそうなことに集中できるかどうか、というのは、その子に我慢する能力があるかをはかる尺度としては悪くはない。

私が、試験を厳しくし、怠け者の学生を決して許さないのは、この、『入学試験我慢くらべ説』に基づいている。能力差はいたしかたないとして、どれだけ我慢することができるかを評価して入学の尺度にしているにも関わらず、入学したら我慢しなくなって勉強しなくなる、というのは、私から言わせれば、詐欺みたいなものなのだ。

えらそうな物言いになるかもしれないけれど、いくら我慢して努力しても、阪大の医学部医学科に入学するレベルに達しない子がいることは間違いない。これも、怠け者学生を許さないもう一つの理由だ。我慢と掛け算して入学できるくらいの素質を持って生まれている、ということは、世間に対し、ある程度のノブレス・オブリージュを負っているのだから、しっかり勉強せえ、っちゅうことである。

昔は、大学入試のために、それぞれが自分で勉強法を工夫していた。言ってみれば、その工夫の度合いが、『能力 × 我慢』にさらに乗じられる第三のファクターであった。しかし、最近は、中高一貫の学校に通い、さらに、塾や予備校で磨きをかけてきた、受験戦争歴戦の勇士たちが多数派になっており、この『工夫項』がほとんどなくなってきている。そして、そのかわり、予備校ファクターが大きくなってきているような気がしている。

10年近く医学部の学生を教えているけれども、勉強する能力というのが、右肩下がりのような印象を持っている。ここ数年は、気の毒なほど勉強能力の高くない学生が一定の割合でいる。それでも入学できているのだから、大学入試という特化した目的にだけ適した勉強法のみを身につけた学生がいるということだ。実際、「わたしは技術だけで入試に合格したので、勉強法がまったくわかりません」と、臆面もなく語る学生を何人も経験している。そんな子は、おそらく『工夫項』ではなくて『予備校項』が極大値だっただけだ。

時代の進歩というのはそういうものなのかもしれない。問題自体は多少変われども、十年一日のごとく、同じ形式の試験が、長い年月、続けられてきたのである。入学試験と予備校の軍拡競争と考えてみると、大学側に勝ち目はないだろう。予備校はその軍拡競争に特化して全力をあげ、その成功が存在意義そのものである。それに対して、大学にとって、入学試験は大事なことであるとはいうものの、そのための専門家が雇われていることすらないのだから。

最近出版された『大学入試 担当教員のぶっちゃけ話』によると、世界中で、各大学で文章問題を作成して入試をおこなっているのは、日本とフィンランドくらいらしい。ほとんどの国では、賢明にも、個別の軍拡競争が回避されているのである。では、どうされているかというと、共通テストと面接により入学者を決定ということになっている。さて、その面接なのであるが、これも難しい。

そもそも、面接で能力がはかれるか、という問題がある。個人的にはある程度わかると考えているが、無理と考える人も多い。口のうまい子だけが有利である、という意見もある。私などは、まぁ、大の大人をだまくらかすくらい機転がきけば、それはそれでいいではないか、と思うのであるが、そういうことを言うと、おまえは口から先に生まれたような奴だから、という目で見られてしまったりする。

入学試験は、決してゴールなどではなくて、あくまでもそこからスタートするための整理点である、というのが健全な認識だ。そう考えると、あるていどゆるやかな線引きで入学させて、適性を見ながらふるいにかけていく、ということができればベストである。しかし、現状では、日本のシステムでそれをやるのは非常に困難だ。何十年も続いてきた入学試験制度というものの慣性力はとてつもなく大きい。

いまはどうなっているか知らないけれど、オランダのある医学部では、合格者を百人だすのに、上位50名と、51位から150位までのうちの半分を抽選で決めていた。異論もあるだろうけれど、こういう制度を導入することによって、入学試験なんかその程度のもんですわぁ、という態度を示すのは悪くないことだ。ちなみに、そんなことして、学生の質が落ちないのか、と尋ねたら、まったく問題はないということであった。

たかが入試、されど入試。自らを振り返っても、大学入試というのは人生における相当に大きなイベントであった。しかし、大学にはいってからやっていけるかどうかを正確にはかることなどできないし、そのための確実な方法論など、たぶんどこにもないのである。という身もふたもない結論にて、終わり。

2013年 9月

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