大阪大学大学院 医学系研究科 病理学 幹細胞病理学/大阪大学大学院 生命機能研究科 時空生物学 病因解析学
Department of Pathology, Medical School and Graduate School of Frontier Biosciences, Osaka University

なかのとおるのつぶやき

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そこには違う「科学」があった

ちょっとした訳ありでカミオカンデを見学する機会に恵まれた。俗にカミオカンデと呼ばれているが、正しくは「東京大学宇宙線研究所附属神岡宇宙素粒子研究施設」。小柴昌俊氏にノーベル賞をもたらしたカミオカンデという観測装置はすでに引退し、その跡地にはカムランドという東北大学大学院理学研究科付属ニュートリノ科学研究センターの反ニュートリノ検出器が作られている。そして、カミオカンデでの研究は、より大型のスーパーカミオカンデにひきつがれている。とか、えらそうに書いてるけど、行くまでは全く知らなかったのである。帰ってきた今でも、なんのこっちゃらようわかってないのである。

富山市中心部から車で小一時間、県境を越えた岐阜県飛騨市神岡町にその施設はある。雑貨屋さんもない小さな集落に、セミナー室や事務室のある小さな建物が建っていて、そこからさらに車で数分くねくねと山道を登ったところに観測施設群がある。地下1キロの施設と聞いていたので、すごいエレベーターで下っていくのかと秘かに楽しみにしていたのであるが、実際には山腹からトンネルではいっていくのであった。考えてみたらあたりまえですね。

入坑にはヘルメット着用が義務づけられている。自慢じゃないが、頭が大きい。どれくらい大きいかというと、帽子屋さんに行くと、頭を見ただけで、お店のおじさんに「ないな、あうサイズは。」と即断されるくらい大きい。だから、ヘルメット着用と聞いて、あうサイズがなかったらどうしようかと不安がっていた。が、私の頭であっても、余裕のよっちゃんでかぶることができるフリーサイズヘルメットが用意されていた。さすがは東大の施設なのである。きっと頭の大きな人が多いのであろうと、変に感心。

なにしろ巨大である。頭ではない、研究施設が、である。坑道の入り口から、観測施設までずんずん車で行かなければならんのである。それぞれの施設と研究内容の詳細については、割愛する。ほんとは書いてみたいのである。しかし、だいたいが宇宙物理などまったくわかっていない上に、事情により説明が英語であったので、なんのこっちゃわからんかったのである。とはいうものの、その構想の大きさがたいがいのものであることはわかった。(ような気がした。)

最大の施設、スーパーカミオカンデは、なにしろ大きかった。といっても、装置全体は巨大な穴に埋め込まれた形になっているので、見えるわけではなくて、直径40m、高さ44mという巨大な円柱形をした観測装置の上をひょこひょこ歩いただけである。その上はドーム状になっていて、ちょっとした体育館くらいのスペースがあり、そこをうろうろしたのである。この中に満たされている水の中で発生したチェレンコフ光を、内側にびっしり配置された光電子増倍管で観測するのだ。(らしいのだ。)

水といっても、水道水などではない、不純物を含まない超純水なのである。超純水なら、ふだんから実験で使ったりするから、ここにあるものの中では珍しく私にもなじみがあるやんか、ふんふんと思いながら聞いていた。が、量が違う。スーパーカミオカンデには5万トンの超純水が満たされているのである。文字通り、桁が違うのである。その製造能力も、毎時5トンとか。はぁっ?分子生物学では、せいぜいリットル(=キログラム)、酵素反応にはマイクロリットル単位なのであるから、ほとんど訳がわからないのである。いやはや、度肝を抜かれまくりであった。

最後に、そのスーパーカミオカンデでの観測をリアルタイムでウォッチしているコントロールルームを見学。そこでは、三交代制で三人ずつが連日24時間詰めることになっているそうだ。モニターを眺めていると、時々、観測されたチェレンコフ光(たぶん)が見えるのであるが、どう考えても、地中で画面を眺めてるだけって退屈すぎるだろう。よほど好きでなければ、とてもできそうにない。

そして、ここでもぶっとんだ。学生や若手研究者だけでなく、教員から施設長まで、全員がそのウォッチに参加することになっているのである。なんと平等なんだ。科学は直接民主主義によって成り立っておるのであるから、そうあるべきでだと思う。しかし、生命科学の研究室では、そんな平等主義は見聞きしたことがない。うちの研究室では、小さなユニットではあるが、ヒエラルキーの頂点に私が君臨(というほどではないが)しているのである。それだけに、宇宙物理学(たぶん)の分野では、平等精神が根付いていることに新鮮な驚きを覚えたのである。

いつ宇宙から飛んでくるかわからないものを、巨大な装置を作って待ち受ける、というコンセプトも、生命科学から見るといくつもの意味において想像のかなたである。まず、これだけの装置を作るという構想力あるいは構築力に驚く。どういう役割分担になっているのかは知らない。けれども、なにを観測するかを決めて、そのための巨大装置の設計から始めなければならないのである。どないなっとんのであろう。ハワイのスバル望遠鏡や播磨のSpring 8もそうであるが、そのためにかけられた予算と時間を考えると、目は虚ろに気はそぞろになってしまう。

もう一つは、忍耐力である。スーパーカミオカンデで、光電子増倍管が連鎖反応でたくさん壊れてしまった時、その復旧には1年もかかったのである。生命科学の研究とはタイムスケールが違う。さすが、悠久の宇宙を対象にしているだけのことはある。というようなものではないだろう。観測を続けていても、宇宙からの粒子(かな?)はいつ飛んでくるかわからない。交代制とはいえ、24時間ウォッチも大変なことだろう。相当なリーダーシップとチームワークも要するはずだ。なにしろいろいろな意味ですごいのである。

そして、その研究成果は、なんの役に立たないのである。これだけの構成力、忍耐力、その他を活用して観測して、結果、役にたたないのである。誤解しないでいただきたい。生命科学研究は、すぐに何の役にたちますか、と聞かれるような時代に突入してしまっている。役立たないことに全身全霊をかけることができる科学、そして、それに従事する人たちに、心底、すばらしいと感動したのである。なんのために研究しているか、という問いに対して、「人類の叡智のために」と答えられると、「そうでしょうそうでしょう、それしかありません!」、と、心から納得してしまうほど、すごいのである。

研究者生活も四半世紀を超えると、ときどき、科学とは、とか、科学者とは、とか、えらそうにほざいたりしてしまったりすることがある。あかん。恥ずかしすぎるがな。自らの経験では、「科学」というもののごく一部しかわかっていなかった、ということが、今回の見学で、ほんとによくわかった。神岡には、訪れるまでは想像もしていなかった科学があったのだ。ということで、深く反省しながら今回は終わります。

2012年 8月

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