大阪大学大学院 医学系研究科 病理学 幹細胞病理学/大阪大学大学院 生命機能研究科 時空生物学 病因解析学
Department of Pathology, Medical School and Graduate School of Frontier Biosciences, Osaka University

なかのとおるのつぶやき

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「評価」ということ

月に一回は『つぶやき』を書くつもりにしているのであるが、今回は月またぎになってしまった。忙しかったのである。自分としては珍しいことであるから、遊びではなくて仕事で忙しかったことを、声を大にして言っておきたい。ちっさい仕事がたくさん重なったということもあったけれど、中盤以降、評価関係の仕事が目白押しであったのが大きかった。

歳をとったせいか、研究費の採択、任期付きポジションの再任、賞の審査などなど、いろいろな評価がまわってくる。評価される一方だったころは、いつか評価する側にまわってみたいと思っていたし、そう思っている若い人もたくさんいるだろう。しかし、いざやってみると、なかなか評価というものは難しく、ストレスのかかるものである。自分勝手に思うがままに、無責任に評価していいのなら気楽なものだろうけれど、そのような評価などはないのである。公平性、客観性を高めるために、ほとんどの場合は、複数の委員で一つの案件を評価することになる。

そうなると、自分の下した評価の内容が気にかかる。たとえば、他の委員の意見が一致しているのに自分だけが違った評価を出したりすると、はっきりと言われはしないのだけれど、「仲野先生、ちょっとおかしいんじゃないの」という、標準語の悪口がどこからか聞こえるような気がしてしまう。評価する側も常に評価にさらされている、という二重構造になっているのである。

本年度は、光栄なことに、京都賞・基礎科学部門の専門委員に加えていただいた。京都賞というのは、稲盛財団が創設した賞金額5000万円という、とてつもなく立派な賞である。今年は、オートファジーの大隅良典先生に栄冠が輝いたのであるが、そのような賞であるから、ノミネートされてくる候補者の中には、いつノーベル賞に輝いても不思議ではない人たちもたくさん含まれている。当然、候補者よりも業績的に劣る委員が、選考せざるをえない。言ってみれば、幕下が幕内を評価するようなもので、ちょっと矛盾しているような気がしないでもない。はたして、そのようなことができるのであろうか。

できるかどうか、ではない、しなければシステムとして動かないのである。そういう時、わたしは必殺技を繰り出すことができる。「自分を棚上げにする」という得意技である。これは、京都賞のように特殊な場合に限らず、ほとんどの評価の際に極めて有効な技だと思っている。この技の要諦は、評価を下すときに、「そんなえらそうなことを考えたり言うたりしてるけど、お前の業績、能力や現状はどうなんや」という内なる真摯な声を封じる、という、極めてつらい抑制をおこなうことにある。

こう書くと、おぉ、仲野はやはり自分勝手な奴だ、と思われるかもしれなし。しかし、評価という際に最も大事なのは「公平性」と「客観性」である。先に書いたように、全体としては、これら二点は、複数で審査することにより、かなり担保されている。では、個人レベルではどうだろうか。思うに、まずは、自己を忘れなければならないのである。自分と比べてどう、とかではなくて、あくまでも、自分の業績や能力を一旦棚上げして、全能の神のような気持ちで評価しなければ、できるものではないのだ。

自己を正当化する訳ではないが、と書いた場合は、たいがいの場合、正当化するのであるが、この「一時的自己棚上げ」というのは、冗談ではなく、自己を見つめ直すいい機会になる。棚上げ、とはいうものの、トランス状態に陥っているわけではないので、気を失っているわけではない。あくまでも、自分のことを一時的に気にせずにいるだけであって、その間におこったことはしっかり覚えている。棚上げを終えた時、実際の自分と棚上げした自分とを比較することにより、他者に対しておこなった評価を、自己評価、そして自己研鑽へとつなげることができるのである。

研究費の審査などでは、分野が近くて知っている人の審査をせざるをえないことも多い。こういった場合に、ある意味で棚上げ以上に難しいのは、その人に対する好悪をなくす、ということである。好きだから甘い点をつけているのではないか、逆に、嫌いだから厳しい点をつけてしまっているのではないか、ということを、真剣に吟味しなければならない。吟味をしすぎると、逆に、好きな人に不当に厳しい点をつけてしまいかねないのであるから、悩ましい。

ときどき、研究費が少しも採択されないのを、自分は誰それに嫌われているからなどと、業績以外のせいにして、自己愛に満ちあふれた言い訳を自分に言い聞かせている輩がいる。しかし、少なくともわたしが知る限り、嫌われているから採用されない、というようなことは決してない。と断言したいところであるが、一件以外は経験したことはない。かくも評価や選考というのは、絶対から1をひいたくらいには、公平かつ客観的なものなのだ。

と、えらそうなことを言っているが、いつまでたっても、きちんと評価できているかどうかは不安でたまらない。評価スキルをあげるためには、同じ課題に対して、自分が下した評価と他の先生が下された評価とをすりあわせて検討するのが一番だと考えている。しかし、そういった機会はめったにない。いちばん大規模な研究費である文科省の科学研究費補助金でも、当然、複数による評価がおこなわれているが、残念なことに、そのような機会は与えられていない。

研究レベルを上げるには、評価スキルを上げなければならないのは当然のことである。だから、ぜひ、「評価を評価できるシステムを」と、ことあるごとに意見している。ちょっと工夫すれば、たいした手間をかけずにできると思うのだが、まともに取り上げられたことはない。膨大な時間と労力を評価に費やせられているのであるから、評価スキルのアップという見返りを得て、少しでももとをとりたいと思うのは当然のことであって、そう思っているのは決して私だけではないだろう。

2012年 7月

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