大阪大学大学院 医学系研究科 病理学 幹細胞病理学/大阪大学大学院 生命機能研究科 時空生物学 病因解析学
Department of Pathology, Medical School and Graduate School of Frontier Biosciences, Osaka University

なかのとおるのつぶやき

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ふたつのちいさなできごと

父親が35歳で亡くなっているので、若い頃から、なんとなく35歳で死ぬのではないかという思いにとりつかれていた。あほなことを、と思われるかもしれないけれど、井上ひさしも中井貴一も同じように思っていたようだから、父親に早死にされた息子の宿命のようなものかもしれない。この3月で55歳になったので、早くも余生生活20年、とえないこともない。そうすると、まことに楽しく有意義な余生で、ありがたいことである。

ちょうど20年前、35歳を迎えたころ、研究生活は最悪。本庶佑先生ひきいられる京都大学医化学第一教室に雇っていただいたものの、まる一年半、成果らしいものはあげられず。私のことを個人的に知っている人には信じられないだろうけれど、ほとんど鬱状態であった。大阪から京都へ通っていたが、往復の京阪特急の中でも、頭の中は研究のことでいっぱい。土日はおろか、お正月も祖父の葬式の日も、データはでないのに研究室へ行って実験しないと落ち着かないような状態という日々をおくっていた。

京都大学医化学教室というと、知る人ぞ知る名門教室。Cell、Nature、Scienceと、俗に三大誌とよばれる雑誌に筆頭著者として論文を載せたことのないような輩は、廊下の真ん中をあるいてはいけないような雰囲気がはりつめていた。そのような論文を持たない私は、大きなビハインドを背負い込んでいたのである。いまとなっては、どうしてそんなに思い詰めていたのか不思議なのだが、そういった焦燥感を持てるというのも、ある意味で若さの特権なのかもしれない。

なんど研究を投げ出して医者にもどろうかと思ったことか。しかし、35歳で死ぬかもしれんのだから、とりあえずそれまではがんばろうとふんばっていた。そうして迎えた35歳の誕生日。あぁ、いよいよやめるべき日がきたかと思ったけれど、いざとなると、精神は弱く慣性は強し。いや35歳はまだ364日ある、と言い訳をしながら続けることに。そしていよいよ自らが設けた仕切り、36歳の誕生日が目前にせまったころ、二つの、小さいけれど忘れられないできごとがあった。

ひとつは、お風呂でシャワーを浴びていた時に、悲しくもなんともないのに、涙がぼろぼろこぼれたことである。あとにもさきにも一度もない、ものすごく不思議な経験であったけれど、なぜか「あぁこれがボトムなんや」という気がした。そして、これが最悪やったらどうということはない、と、ずいぶんと楽になった。かといって研究は進まず、いよいよ辞めんとあかんかなぁ、という気持ちはつのる一方であった。

京都大学というのは、ちょっと特殊事情があって、大阪のような遠くから通ってくるのは少数派で、多くの人は大学の近辺に住んでいる。だから、研究時間はかなりフレキシブルで、夜中に実験する人もけっこういる。私も、実験で遅くなった時のために大学の近くに部屋を借りていたのであるが、その涙の日から何日かたった眠れぬ夜、午前二時頃にふらっと研究室に出かけた時、二つめのできごとに遭遇した。

当時講師であった私は、「六研」という大きな研究室を一つまかされ、7〜8人の大学院生たちを指導していたが、その夜、夜中の二時というのに、なんと、その部屋の全員が実験をしていたのである。めったにあることではない。心底おどろき、我が目を疑った。辞めるということは、この子らの研究指導を途中でほうりだすことなのだ。こんなにがんばってくれているのに、そんなわけにはいくまいと、36歳の誕生日をすぎてから、もうすこしがんばる決意をした。

そして一ヶ月あまり。それまでもやもやしていた研究が劇的に進み、ゴールデンウィークあけに目が覚めるほどすばらしいデータが出た。いまでもそのデータを見た時の興奮は昨日のことのように思い出せる。うれしくてうれしくて、キャンパスのまわりを、意味もなく、1時間も2時間も自転車で走り回ったのだから。そして、その研究が無事にScience誌に掲載され、母校大阪大学の微生物病研究所教授へと栄転することがきまった。

いいデータが出てしばらくしたある日、鼻歌を歌っている自分を発見して、あぁ鼻歌を歌うのはどれだけぶりだろうか、と驚いたことがある。後から振り返ってみると、限界まで追い詰められていたのかとわかるけれど、追い詰められている時というのは、そこまでとは思っていなかった。苦労を売りにするようでは、人間、最後である、と常々思っているし、苦労などしないにこしたことはない。しかし、あの頃の苦労があったから、それ以降、たいがいのことがあっても、まぁ、あれに比べればどうっちゅうことはない、という腹のくくり方ができているのも事実である。

カタルシスのような涙がなかったら、そして、午前二時の研究室全員集合状態がなかったら、36歳の誕生日を契機に研究を辞めていただろうと思う。ひょっとしたら、あのころは、私の近くに神様がいて、あと一歩だからもうちょっと続けなさいと励ましてくれていたのかもしれない。研究をしていると、必ずしんどいことがあるし、そのしんどいことを乗り越えないと、次の一面に挑戦する権利すら与えられない。残念なことに、努力は必ずしも報われるとは限らない。しかし、かつての大阪大学総長・山村雄一先生が残された名言「天命を待って人事を尽くす」という姿勢だけは保っていないと、決して前に進むこともできないのだ。二つの小さな出来事がなければ人事を尽くせなかっただろうと思うと、とても不思議な気がする。でも、天命や運命というのは、ひょっとしたら、その程度の小さなことで決まっていくものなのかもしれませんね。

2012年 3月

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